2020-06-19 第201回国会 参議院 沖縄及び北方問題に関する特別委員会 閉会後第1号
○国務大臣(衛藤晟一君) 北方領土は、ただいまの後の経過を申し上げますと、日露通好条約によって国の境界を定めました。そのときから歯舞、色丹、国後、択捉は我が国であります。
○国務大臣(衛藤晟一君) 北方領土は、ただいまの後の経過を申し上げますと、日露通好条約によって国の境界を定めました。そのときから歯舞、色丹、国後、択捉は我が国であります。
○政府参考人(宇山秀樹君) 国後、択捉の二島につきまして、過去に南千島あるいは千島南部と言及した例があったのは事実でございますけれども、サンフランシスコ平和条約に言う千島列島、その範囲は、日本がロシアとの間で締結いたしました一八五五年の日露通好条約及び一八七五年の樺太千島交換条約、この規定から明らかなように、得撫島以北の島々を指すものであると、そこに択捉島、国後島、色丹島、歯舞諸島は含まれていないというのが
○政府参考人(宇山秀樹君) この一八五五年の日露通好条約は、得撫島と択捉島の間に日本とロシアの国境を画定したものでございます。この条約に言うクリル諸島と申しますのは、これは得撫島以北の島々である千島列島のことであるというのが政府の見解でございます。
○政府参考人(宇山秀樹君) この一八五五年の日露通好条約でございますけれども、日本語、ロシア語、オランダ語等複数の言語で書かれておりまして、いずれが解釈上の正文であるかということは特定されておりません。
一八五五年の日露通好条約によって択捉と得撫の間に国境線を引いた、そのことを記念して、政府、閣議了解でこの日に決まったということであります。総理もきのう、出席をなさって御挨拶をされたと思いますけれども。
一八五五年の日露通好条約が平和裏に画定をしているということかと思います。 先ほど、時間的制約のことを少しお話をさせていただきました。その観点から申し上げますと、ソ連及びロシアが実効支配をしたのは一九四五年からとなりますので、本年で七十三年になるかと思います。
この得撫島と択捉島の間に国境線が引かれているこの根拠を、先ほどサンフランシスコ講和条約の件を引き合いに出されましたけれども、一八五五年の日露通好条約で日本とロシアの国境を択捉島と得撫島の間とするということで合意されたとされておりますけれども、元々、その得撫島と択捉島の間に国境を引くその根拠条約というのがこの日露通好条約という理解でよろしいんでしょうか。
○国務大臣(河野太郎君) 一八五五年に調印されました日露通好条約は、得撫島と択捉島との間に平和裏に日本とロシアとの間の国境を画定しております。
日露通好条約、そして千島樺太交換条約、ポーツマス条約、そしてサンフランシスコ平和条約、全部正確に知っていて説明ができる。ただ、最後のところだけ違って、第二次世界大戦の結果こうなったんだから、これはもう自分たちのものだという、ここだけは全く揺るがない。事実関係は一緒だけれども、そこの認識が違うということを確認しました。
さらに、先生との関連でいえば、実は記者からの質問に対して日ロの領土交渉の歴史をプーチン大統領が語ったんですが、そのとき、まさに一八五五年の日露通好条約に言及、これもロシアの首脳が言及するというのは珍しいんですね。
私の地元である静岡県にある下田というところは、日ロの交流の原点である日露通好条約ゆかりの地でもあります。また、開国を求めて来航したプチャーチン提督のロシア軍艦のディアナ号にまつわるエピソードもいろんなところで実は残っているんですけれども、そんなことを背景に、一月に、今年の一月ですが、参議院の自民党日露懇話会の幹事として、実は団長は大臣でございますが、ロシアを訪問してきたところであります。
もっとも、この日はもともと一八五五年に当時の江戸幕府と帝政ロシアとの間で日露通好条約が結ばれた日であり、これは別名日露和親条約とも呼ばれ、両国にとっては平和的に国境を定めた前向きな記念の日でもあります。 当初は大会中盤での出席を検討していたというふうに漏れ聞いておりましたけれども、その総理があえてこの日にソチへ出向くに至った経緯と、翌日の首脳会談に臨む決意をお尋ねいたします。
それで、この北方領土、今更言うまでもありませんが、幕末に日露通好条約を結んでから条約上だって一度たりとも日本領でなかったことはない、そういう固有の領土であるということは、これはもう菅さんと私の共通の理解である。そうですよね。それで、だけれども、そういった、要するに、この前の戦争の要するに実益というか成果をそのまま、そのまま居座るんだということをロシアは言っているわけですね。
これは、一八五五年の日露通好条約、一八七五年の樺太千島交換条約によって、実は、平和的、歴史的に全千島列島が日本の固有の領土となっておるわけですね。それを、スターリンの誤りと、一九五一年のサンフランシスコ条約第二条(c)項で、当時の日本政府が、日本の歴史的に明確な固有の領土である千島列島を放棄して、同時に、ヤルタ協定の千島引き渡し条項を正してくれという主張を実はしていないんですね。
一八五五年の日露通好条約においても、要は、当時からも自然に択捉と得撫の間が境界線ですねということで、この択捉、国後、歯舞諸島それから色丹、この四島についてはもう日本の固有の領土であったということは紛れもない事実でございますし、また、千島樺太交換条約で譲り受けたのは得撫から北の十八の島でありますので、千島列島はこの十八であって、四島は入らないということについては、私は何の問題もないと思います。
幕末から明治にかけての日露間の平和的な外交交渉におきましては、一八五五年の日露通好条約、それから一八七五年の樺太千島交換条約を経て、全千島が日本の領土と確定されました。その後、日本の領有が正当な根拠を持つことは、第二次世界大戦の時期まで国際的にそれが問題になったことは一度もなかった。ここまではそういうことでよろしいですね。
○前原国務大臣 るる国会答弁等も含めてお話をされましたけれども、政府の解釈としては、北方四島が歴史上一度も他国の領土となったことがないという歴史的事実、特に一八五五年の日露通好条約でも、択捉と得撫島の間を国境をそのまま確認していたこと、また、千島樺太交換条約において、得撫島以北の十八島の名を列挙して千島列島としているということから、日本政府の立場は不変でございます。
また、皆さんの懸念としましては、一八五五年に日露通好条約が結ばれまして、国境が画定をされました。その中で、正式な形で択捉島と得撫島に国境が引かれて、そして四島に日本人が、一八五五年以前にも住んでいましたけれども、それからは法的な枠組みの中で九十年間、一九四五年に不法占領されるまでは九十年間居住をしていたわけです。
史実としては、日本とロシアが下田で日露通好条約を締結して以降、一貫して百五十年以上北方領土は日本固有の領土であり、また第二次世界大戦の終戦後に当時のソ連が不法に占拠したというふうに認識をしておりますけれども、二年前、当時中学校で使われていた教科書の記述には、第二次世界大戦末期に占領と、史実と違う記述や日本政府の見解と異なる記述をしていた教科書が複数ございました。
根室納沙布岬から四キロも離れておらず、百五十一年前の日露通好条約締結以来、一貫して我が国固有の領土であり続けた歯舞諸島において、なぜ自国民が命を落とさなければならなかったのか。これは、漁業問題という産業の一側面にとどまらず、れっきとした領海侵犯、主権にかかわる外交問題です。
○小池国務大臣 領土問題は相手があってなかなか難しい、粘り強く交渉をということでございますが、ことしは殊のほか、六十年という節目であり、なおかつ日露通好条約から百五十年という節目でございました。それだけに、元島民の方々を初めとする関係者の人たちの期待は大きかった。
本年は、得撫島と択捉島との間に平和裏に日ロ間の国境が画定された日露通好条約調印から百五十周年に当たります。日ロ間においては、戦後六十年を経た今日に至っても、北方領土問題をめぐって双方の主張がいまだ平行線をたどっており、この現状を打破することが必要です。
日露通好条約の調印から百五十年の歴史的な年に、プーチン・ロシア大統領が十一月下旬に来日の予定と聞いております。日ロは経済関係やエネルギー問題で関係強化が図られてきましたが、大統領の来日をただ手放しで喜ぶわけにはいかないという事実もあります。今回の来日を、我が国の長年の悲願である北方領土問題から、解決のための大きな一歩としなければならないと私は考えております。
したかどうか分かりませんけれども、私どもは、日本政府は一貫いたしまして、サンフランシスコ平和条約第二条(c)により千島列島は放棄しておりますということで、この千島列島の返還を求めることはできない、その考えはないということを言っているわけでございますが、一方におきまして、千島列島はそもそも歴史的に一度も他国の領土、我が国以外に所属をしたことがないということが一つございますし、それからさらに、一八五五年の日露通好条約
御案内のように、本年は、日露通好条約締結百五十周年、日露戦争終結百周年、また、ソ連による北方領土侵略から六十年という節目の年に当たっておりまして、プーチン大統領御自身も、昨年の中国との間の領土問題解決を受けまして、日ロ間の問題解決に向けても意欲を示しておられるというふうに報じられております。
そして、御指摘のように日露通好条約百五十周年。そして、韓国とは日韓条約を結んで四十周年、ことしは友情年にしようということで、先ほども答弁をさせていただきましたが、さまざまな交流事業を企画いたしているところであります。
そういう現状の中で、私たちが、二十四年前に閣議決定されて、この一八五五年、初めて日露が平和的に国境を、国境線を引いて北方領土が我が国固有の領土であるということを定めた日露通好条約、このことを記念して、百五十年前のことを記念して北方領土の日というのが閣議決定で決められてから二十四年がたちます。しかし、北方領土の日ということを記述している教科書は、中学校の教科書の中には一冊もありません。
今からちょうど百五十年前の一八五五年二月七日に、日本とロシアは初めて両国間で平和的に国境線を定めた日露通好条約を下田で署名しました。それが二月七日だったもんですから、二月七日は今でも北方領土の日と定められていて、そこで、毎年、九段会館で北方領土返還要求全国大会が行われます。